社宅跡地



BGM ・・・ 3つの軍隊行進曲 第1番 (シューベルト:タウジッヒ編曲)
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1号館北面


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2011年4月、早朝。
撮影を一旦中断する。
時間をかけて朝食をとり、聴いたことのないアルバムを聴く。

世の中が動き始める頃合いを見計らって腰を上げ、向かいのビルの管理人さんを訪ねる。
事情を話して屋上の鍵を開けて貰い、社宅敷地の全景を見渡しつつシャッターを切る。
2・3・4号館は土台を残して既に瓦礫と化し、1号館も取壊しが始まっているのがわかる。
社宅の姿を収めることが出来るのは、おそらく今日が最後だ。

近所の人に聞いてみると、まだ跡地の用途は決まっていないらしい。
それでも早々に取り壊すことになった背景には、地震の影響があったようだ。
一見何の損傷もないように見えた建物には、よく見ると亀裂が入っていたらしく、放置すると危ないと判断されたとのことだった。
赤坂の乃木神社の一の鳥居も、亀裂が入り一時撤去されている。
震源から離れた東京においても、あまり目立たないが被害は出ているのだ。

取壊しを決めた会社には、何の不満もない。
むしろ、社宅閉鎖から2年間も取り壊さずにいてくれたことや、かつての住人であるという理由だけで立入禁止の敷地内に快く立ち入らせてくれたことを思うと、感謝は尽きない。
自分にとって本当に何物にも代えがたい時間を与えて頂いたと思う。

もはや社宅を実地に訪れることはかなわなくなったが、撮り貯めた寫眞は結構な枚数にのぼる。
いずれ、そういう2次元の寫眞から3次元映像を簡単に組み立てることができる技術が開発されるに違いないと睨んでいる。
その時が来たら、出来るだけ精密な3Dの社宅を再現し、心行くまでヴァーチャル・ツアーを楽しみたい。

BGM ・・・ この街 (森高千里)

2号館西面・3号館南面


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2011年3月、夕刻。
2号館西面に設けられた、敷地内唯一の水飲み場。
水道栓をひねると、蛇口から落下した水が足元で撥ねて、少年たちの靴や脛を濡らした。
庭で遊んでいる最中に喉が渇いたら、自分の部屋に戻ったりせずに野外で水を飲むというのが、ここの社宅の子どもの美学だと少年は考えていた。

スピーカーがプツンと鳴って電源が入ると、録音テープの再生が始まる。
レコードと針の摩擦音に続いてピアノのメロディが流れ、女子生徒のアナウンスがそれにかぶさる。
「下校時刻になりました。早く用事を済ませ、気をつけて下校しましょう。」

5年生になって、少年たちは日曜日に近くの高校で大人の指導を受けながら野球するようになり、社宅の庭で遊ぶ三角ベースは下火になっていった。
その分、平日は、下校時刻ぎりぎりまで学校にいることが多くなった。
学級新聞の制作、生徒会の会議、理科の自由研究、校外の子ども会行事の相談。
放課後にやることは一杯あったし、そうした用事が無い日でも、友達とダラダラ学校に居残るのが何となく上級生っぽい遊び方だと思っていた。

学校を出て社宅に帰り、2号館のそばを通る時、自分たちより少し年下の子どもたちが、水飲み場に群がっているのが見えた。
自分たちが下校時刻まで学校で過ごしていた時間を、彼らは社宅の庭で過ごしている。
その時、少年は、自分たちこそがこの社宅の子どもだった時代が、すでに過ぎ去ったことを感じ取ったかもしれない。
郊外への引越しが決まり、社宅の外に足を踏み出す時が迫っていた。
校内放送のピアノのメロディは、そのような転換期の象徴的記憶となって、心の奥底に定着した。

同じメロディを聞きながら、今また、社宅を離れる時を迎えたことを感じる。
11歳で引越した後、おおよそ10年ごとの周期をもって社宅への帰還衝動が昂まる度に、旧少年は現地に足を運び、昔のままの姿を維持している社宅を眺めて、精神の平静を回復してきた。
しかし、消え行く社宅に頼ることは、もうできない。

2011年4月、早朝。
毎月恒例となった社宅撮影に赴いたところ、これまで見たことの無い高い壁に取り囲まれた敷地の中に、2・3・4号館の姿は既になく、1号館のみが解体寸前の姿を晒していた。
社宅の歴史の最終章は、住人の退去とともに始まり、それからちょうど2年後の解体工事着工をもって終わった。
数十年に亘る社宅の歴史は、完全に閉じられたのである。

BGM ・・・ 子供の情景 トロイメライ (シューマン)

3号館南面


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2010年12月。
午後になっても、空気は澄んでいた。

社宅に入居できるのは、基本的に若い職員に限られていた。
マイホームを持てば勿論、そうでなくとも入居期間が長くなると社宅を出るのが慣例だったらしい。
空いた部屋には、次の若い世帯が入ってきたので、社宅は常に若い世帯で満ちていた。

若い世帯には大抵子どもが2~3人いたので、随分多くの子どもたちが、社宅の敷地内に犇めいていた。
同学年の友達だけでなく、弟の同級生ともよく遊んだ。
1~2歳年上の人たちにも随分遊んでもらったが、カブスカウトの活動を通じて彼らと仲良くなったことが大きく影響している。

社宅の広場には、社宅の内と外から毎日のように同級生が集まり、野球をやった後は誰かの部屋に雪崩れ込んで、トランプやボードゲームで遊んだ。
通常でも十数名、多い時は二十名にものぼる集団が、狭い2DKの住居にどうやって入り切れたのか、今となっては謎である。

少年の母親は、頻繁に来襲するイナゴの大群のような子どもたちに与えるおやつや飲み物を買い揃えたり、自分で作ったりするのに忙しかったが、実は、住居を大勢のイナゴに占拠されることを内心嬉しく思っていたし、母親がそう思っていることを少年はちゃんと知っていたから、平気でイナゴたちを呼び寄せた。
兎に角、やたら多くの子どもたちに揉まれながら少年時代を過ごすのが、社宅という場所の流儀だった。

少子化が進み、社宅の風景も様変わりしているだろうと想像するが、それでも他の場所に比べればまだ、多くの若い世帯と子どもが群れては去っていくのが「社宅」という場所の本質的特徴であることに変わりはないはずだ。
入居後何十年も同じ場所で暮らしている高齢者が多く、住人のローテーションが遅い「団地」は、この点において「社宅」とは根本的な相違があると考えている。
ひと頃、昭和懐古の流れに乗って団地ブームが起きたことがあったが、社宅というカテゴリーが世間の関心を集めた記憶はない。
団地研究との微妙な差別化を意識した「社宅研究」の開墾が、大いに待ち望まれるところである。

ヒデオ君の部屋が見える。
中学と高校の間の春休み、ヒデオ君の発案でミニ同窓会を開いた。
ヒデオ、ミチオ、イサオ、ヒデヒコ、ヒロシと少年の6人がここの社宅組。
マコトが別の社宅組で、サガワが非社宅組だったと記憶している。
この時までに1人を除いて全員が引越しを済ませていたので、小学校時代を同じ学区内で過ごした8人は皆、住んでいる街も進学する高校もバラバラだった。
一箇所に凝集していた子どもたちは、あっという間に遠隔の地へと離散していった。
こうして友人がいなくなった場所を故郷と呼べるかどうかは分からないが、それでも、各人の心の中には共通の故郷のイメージがいまだに息づいていると信じたい。

BGM ・・・ フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ 第2楽章 (ドビュッシー)

2号館北面・3号館南面


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2010年11月、午前。
時間はある。
邪魔はない。

旧自転車置場に腰をおろし、自分が社宅の風景に馴染むまで待つ。
得心が行くまで周囲の空気を体内に取り込んだら、おもむろにファインダーを覗く。

社宅にまだ住人がいた頃は、ここを訪れても、こういう落ち着いた時間は持てなかった。
敷地内に足を踏み入れた瞬間から、警戒モードに入った住人の視線が突き刺さってきた。
不法侵入の嫌疑を掛けられ誰何される前に、手早く撮影を済ませて敷地外に出ることしか頭になかった。

この社宅と親密な関係を築くためには、社宅が無人の廃墟、無用の長物となることが必要だった。
それはつまり、遠からず社宅が取り壊されることを受け容れねばならないということを意味する。

別れが決まって、初めて想いが通じる。
想いが通じた時には、確実な別れが迫っている。
大事な相手であればあるほど、そうした摂理から逃れられない運命にあるような気がする。

イサオ君とカスミちゃんの部屋が見える。
ドイツ帰りのイサオ君は、大量のレゴを携えて帰国した。
その相当部分が日本人学校の運動会で獲得した賞品であることを知った少年たちは、高々デザートが給食に加わるに過ぎない自分たちの運動会と比べて、明らかに生徒のヤル気を掻き立てる異国の素敵な運動会に思いを馳せた。
後日、イサオ君のお父上は、海外出張中に墜落事故に巻き込まれた。
多数の人命が失われた惨事にもかかわらず、奇跡的に一命をとりとめたお父上の名前を乗客名簿の中に発見した時、運命の実在について考えてみた。

BGM ・・・ 約束 パート1・2 (小室哲哉)

3号館南面


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2010年9月。
午前11時に、気温は30℃を超えていた。

草を刈ったばかりの庭が、早くもフサフサしてきた。
住人が退去しても、庭の手入れは頻繁に行わざるを得ないようだ。
冬の乾燥注意報の時季に枯れ草や落ち葉など放置すれば、即刻、消防署から指導が入るかもしれない。

撮影していたら、近所の人らしき二人連れが通り掛り、「人がいなくなったのに、いつまで建っているんだろう」、「何だか気持ち悪いね」などと、早く社宅を取り壊せと言わんばかりのつれないセリフを吐いていく。
立入禁止の敷地内に足を踏み入れるに際しては、社宅を所有している会社の事前了解を取り、社宅に隣接する交番にもご挨拶に伺っている。
しかし、そんな事情を知らない善良な市民から見れば、柵を越えて侵入し、やたらとシャッターを切っている男は、どう見たって不審者、良くてせいぜい奇矯な廃墟マニアにしか見えないはずであり、いずれにしろ然るべき筋に通報しておくに越したことはない要注意人物といった待遇だろう。
不安な街の声がいずれは会社にも届くかもしれないし、そうなれば会社としても何らかの手を打たねばならなくなる。

現実化したトラブルもあったようだ。
不届き者が敷地内にゴミを持ち込んだらしく、「不法投棄禁止 監視カメラ作動中」の看板が掲げられていた。
警備会社との契約を取り急ぎ結んだようだが、こうして余計な管理コストが嵩み始めると、会社は早々に社宅取り壊しの決断を下すのではないかと懸念する。

建物は古いが、ざっと見て5千㎡はありそうな土地の方は、交通至便の地の利を有する優良物件だ。
それだけにおそらく、無人の社宅のために支弁される固定資産税は馬鹿にならない金額にのぼるはずだし、あたら土地を寝かせておけば機会費用も発生する。

あれこれ考えるほどに、この社宅の余命はそんなに長くなさそうだとの結論に、どうしても落ち着く。
それでも、跡地利用の目処が立たないのか、住居閉鎖後2回めの夏がもうじき終わろうとしているのに、何事も無い日々が過ぎていく。
猛暑が続く中、深緑の樹木は荒々しい光合成を今も続けているし、それにつられて建物の方も一段と生命力を増しているように見える。
会社の事情を弁えぬ手前勝手な願いとは知りつつも、この泰平な時間が続くことを、誰に祈ればよいのかわからないが、そっと祈った。

BGM ・・・ 虹のしずく (松岡直也)

1号館北・東面


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2010年5月。
新鮮な葉の色、草の色、花の色の照り返しを受けて、無人の建物は再び生気を取り戻したように見えた。

1号館東面には、投球練習やテニスの壁打ちに持って来いの平滑な壁面と、遊び場として適度な広さのスペースが確保されていた。
40年前の住人は、壁にぶつかるボールの騒音や振動によく耐えていたと思う。
誰も文句をつける大人がいなかったのを幸いに、少年たちはここで好きなだけボールを投げ、ラケットを振らせて貰った。

その後十年ほど経ってこの場所を再訪すると、壁にはボール遊び禁止の高札が貼られていた。
文句をつける大人が現れたに違いない。
大学生になっていたかつての少年は、ボール遊びを禁止された子どもたちよりも、騒音・振動に積年の恨みを重ねた果てに我慢の限界を突破し、高倉健の如く悲憤のマグマを爆発させた(かもしれない)大人たちの方に同情した。
ご近所迷惑な自由を謳歌していたかつての少年は、こうしていつの間にか体制派へと転向して行った。

BGM ・・・ ヴァイオリン・ソナティナ第3番 第2楽章 (シューベルト)

1・2号館南面


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2010年1月。
社宅敷地東南隅から、枯れた庭を見る。

かつての住人、ここで遊んだ近所の人、通勤通学や散歩の途中にそばを通った人。
その他、この社宅と何らかのかかわりがあった人たち。
誰から見てもこの社宅、結局は単なる過去の遺物なのだろうかと自問する。
やはりそうだろうとの結論に逢着すると、年月を耐えて寒空に立つ建物や庭の草木が、不憫でならなくなった。

BGM ・・・ レクイエム Requiem,Kyrie (モーツァルト)

4号館南面


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2010年が明けた。
冷え込んだ朝、空気の振動まで控えめな、音量の少ない時間が流れて行く。

周囲に高いビルがまだ建っていなかった頃、社宅の水道タンクに上ると、遠くまで眺望を楽しむことが出来た。
屋上から揚げた自前の凧を、1キロ以上離れた所で奇怪な姿を見せていた給水塔の上空まで、ゆっくりと遠征させる人もいた。

そして、上の学年になって気が付いたのは、屋上に上がると、誰の目にも触れることなく遊ぶことが出来るということだった。
今なら近くのマンションから丸見えの屋上も、そんなマンションが建つまでは、貴重な死角を提供してくれていた。

ヒロシ君の部屋が見える。
別々の幼稚園に通っていたヒロシ君と少年は互いに全く面識が無かったが、小学校に上がる直前の冬、どういうわけか社宅の砂場で二人きりになり、初めて顔を合わせた。
話しているうちに、二人は4月から同じ小学校の新入生になることがわかった。
その時彼は、少年に向かってこう言った。
「ぼくたち、友達になろうね」

これには全く仰天させられた。
それまで、友達とは何時の間にかできるものであって、意図的に友達を作ることなんかできっこないと頭のどこかで感じていたので、大袈裟に言えば自分とは異なる生き方があるのだということを同い年の子から教えられて、大変な衝撃を受けた。
今では、facebookなどを通じて誰かと「友達になる」ことに何の抵抗も感じていないが、そのルーツはヒロシ君との出会いにあったと言えそうだ。

BGM ・・・ DIVING FOR PEARLS (土橋安騎夫)

2号館北面


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2009年、年末。
楓の落葉は、誰にも蹴散らかされることなく、幾層にも積み重なっていた。

少年たちは、ここで毎日のように野球をした。
バット目がけて大リーグボール1号を投げると、大抵バッターに当たり、悶着の原因となった。
次の投球で、バッターは「オズマ」とか言いながらバットをピッチャー方面に放り投げ、復讐を果たした。

寫眞にある太い木や花壇は、少年たちが野球をしていた頃にはなかった。
毎日、野球少年の五月蠅い集団に生活を掻き乱されるのに閉口した一部の社宅住人が、野球場のお取り潰しを会社に働き掛け、その結果、庭の「整備」と称して野球するのに邪魔なものが置かれてしまったとの説がある。
あるいは、ちょうどその頃、社宅の中でも自家用車を持つ人が現れ、庭の隅が駐車スペースとして使われ始めていたので、あらぬ方向に飛び交うボールやバットに大事な車を傷付けられてはかなわないと考えたマイカー・オーナーたちが陰謀を巡らしたとも言われている。
いずれにせよ、少年の次の世代の子どもたちは、この場所で星飛雄馬や花形満を演ずる道を閉ざされたわけであり、甚だお気の毒だったが、その責任の幾許かは少年たちの世代が負わねばならないのかもしれず、誠に相済まぬ事をした。

ミキオ君とスミコちゃんと少年の部屋が見える。
ミキオ君のお母さんに作ってもらったお好み焼には、初めて食べる紅生姜が入っていた。
この世にこんなに旨いものがあったのかと心底から感嘆し、帰宅するなり、次からは我が家のお好み焼にも紅生姜を入れてくれと母親に直訴した。

BGM ・・・ ピアノのための6つの小品 op.118 第2曲 (ブラームス)
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