香港的
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二十歳の頃、地図を持たずに足の向くまま歩き回っているうちに、板橋区内の住宅密集地に入り込んだ。
車が入れない細い路地と急峻な階段が入り組み、北向きに傾斜するじめっとした谷底に狭小な家屋がみっしり詰まったその街は、他所では見たこともない凄惨な様相を呈していた。
見た目に古い街だが、戦後の東京や昭和の日本のヒューマンな風情などはどこにもない。
何回かここを訪れるうちに、日本の首都とは全くかけ離れた時間を刻む租界のような谷底の街を、「東京の香港」と勝手に命名した。
殺伐とした空気が流れる返還前香港の裏町の雰囲気を日本に居ながらにして体験できる、貴重な空間だった。
東洋の魔窟と呼ばれた九龍城砦を香港政庁が取り壊してから、10年余り後のこと。
劣悪な居住環境の整備、緊急車両が進入可能な道路の敷設といった社会政策のもとで、薄暗い谷は丸ごとキレイに整地され、戦後60年分の垢を溜め込んだ「東京の香港」は一掃された。
その後、消えた街の残像を求めてネットをうろついていると古い写真が幾つか見つかったが、それとともに、この場所が東京の中の異界として一部の人には有名な存在だったことを知った。
「東京の香港」に、見るべきものは何もなかった。
他の街に住む人々の体質に合わない空気が街全体を包み込み、訪れる者を撥ねつけていた。
それでも、世の数寄者たちの心は異界に惹き付けられ、身体は異界に引き寄せられた。
やがて異界は、そんな来訪者たちに全く頓着すること無く、地上から消えて行った。
今また新たに、谷あひの街に引き寄せられんとしている我が身体を意識する。
であれば今度は、街が地上にあるうちに、しっかりと足を運んでおくことだ。
谷あひの街に行っても、見るべきものは特にない。
美しいものも、感動的なものも、人生にとって意義深いものも、そして、ほのぼのとしたレトロなものすらもない。
ただ単に、近付き難い空気に逆らって異界に近付き、その空気の正体を思い描いてみるだけのことである。
BGM ・・・ 香港的大廈 (島邦明)
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発色事情
配色事情
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凝とカメラを構えていると、不意に暗い玄関から家人が現れたらどう対応すればよいか、全くアイデアがないことに気が付いた。
意図不明の配色を選択した住人の気質は予測がつかず、何を問われても上手く答えられる気がしない。
脇を締めた体勢が、一層張り詰める。
谷あひの街に足を踏み入れる度、禁忌に触れる感覚に身を包まれ、長居はならぬことを思い知る。
シャッターを切るのと同時に、軒下から一匹の蛾が離れた。
その飛跡を追って視線をファインダーから外し、屋根の向こうに蛾が消えるのを確かめると、肩をストンと下げて体の強張りを振り落とし、早々に次の場所へと移動した。
BGM ・・・ 妄人路 (島邦明)