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国立競技場南門


   (寫眞をクリックすると拡大します。)

2014年にブラジルで開催されるサッカーW杯への出場を目指し、日本代表の戦いが来月から始まる。

日本がW杯に初出場を果たしたのは、98年フランス大会。
あの時、02年W杯を日韓共催とすることが既に決まっていたため、日本としてはどうしても98年フランス大会に出場しなければならなかった。
それまで一度も本大会に出場したことが無かった日本が、もしフランス大会にも出場できなければ、日本は一度も本大会出場の経験がないまま、日韓大会の開催国枠という言わば「裏口入学」によって初出場達成ということになる。
そんなカッコ悪い国は、W杯の長い歴史の中でも皆無だった。

にもかかわらず、W杯前年の97年、日本はアジア地区最終予選において極めて厳しい状況に陥った。

最終予選に残った10カ国は5カ国ずつA・B2組に分けられ、各組で3位以下になったらその時点で予選敗退が決定だった。
各組内の順位は、ホーム・アンド・アウェイの総当たり戦、すなわち同じ組に属する4カ国を相手に2試合ずつ、計8試合を戦って決まる。
日本は韓国等とともにB組に入ったが、韓国が早々とB組1位を確定した一方で、日本は全8試合中の7試合目が終わるまでは2位の確保すらままならず、一時は予選敗退ムードが濃厚だった。
結局、最後は何とかB組2位に滑り込み、その後マレーシア・ジョホールバルで開催されたA組2位イランとのプレーオフを制してフランス行きを決めたが、非常に危ない綱渡りだった。

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B組の試合がひとつ終わるごとに、フランスへの道が次第に遠のいていくように見えた日々。
はじめはW杯初出場を期待して応援していた人たちも、途中から手のひらを返すように、最初から期待なんてしていなかったと言わんばかりの冷たい視線を日本代表に向けるようになった。
そして、そうした冷たい眼差しは、日本代表だけでなく、しつこく日本代表を応援し続けるサッカーファンに対しても向けられ始めていた。
自分も、正直に言えば、そういう周囲の視線に耐えかねて、やっぱりダメかなと気持ちが挫けそうになったことがある。

この状況の下で決定的な役割を演じたのが、川平慈英だった。
当時、ニュースステーションという報道番組の中でサッカーコーナーを担当していた男である。
彼は番組の中で、どんどん落ち込んでいくサッカーファンと気持ちを共有しながら、日本代表の不甲斐ない戦いぶりに憤懣をぶつける一方で、それでも、絶対にあきらめるな、最後まで戦い抜こうというメッセージをサッカーファンに送っていた。

慈英さんのポジティブな姿勢は、「いいんです!」というキメぜりふに凝縮されていた。
勝てない日本。
でも、「いいんです!」
次の試合に勝てば、「いいんです!」
彼は、たった一人で日本中に向かって叫び続けた。

サッカーに興味のない人から見れば、勝てそうに見えない、そして事実勝てない日々が続いた代表チームを応援し続けるあの時の慈英さんは、ピエロのように見えたかもしれない。
しかし、ピエロ扱いされることを厭わずに画面の向こうからサッカーファンを鼓舞する慈英さんの姿を見て、サポーターたちは、勝てない代表チームを応援しているのはオレたちだけじゃない、馬鹿だと思われてもいいからとことん代表を信じて応援しようと、秘かに決意を固めた。
サポーターは失いかけた気力を回復し、最後まで勇気を持って日本代表チームを後押しする役割を全うした。

もしもあの時、日本中のサッカーファンがあのまま落ち込んでいったなら、サポーターは代表チームを押し上げる力を発揮することができなかっただろうし、サポーターの後押しを失った代表チームは、本当にフランスへの道を絶たれていただろう。
そういう意味で、自分個人としては、フランスW杯予選突破のMVPは、中田でも、岡野でも、城でも、井原でも、川口でも、岡田監督でもなく、慈英さんだったと考えている。
これは、冗談や誇張で言っているのではない。

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1997年11月8日。
B組最終戦となるカザフスタン戦に勝って、日本のB組2位が確定した直後の国立競技場。

場内には、次のプレーオフに勝てばいよいよフランス行き決定というところまでたどりついた興奮と熱気が充満していた。
海外で開催されるプレーオフの応援のために現地まで乗り込むことを、その場で宣言したサポーターもいた。
そんなサポーターは人だかりに取り囲まれ、次々に「オレの分の応援も頼む」と握手攻めや抱擁攻めにあっていた。

そして、皆が興奮さめぬまま国立競技場の南門から退場しようとしていた時のことだった。
サポーターの群衆の中から、誰かの素っ頓狂な声が上がった。
「日本はこの勢いでプレーオフに勝っちゃっても、いいんですかぁ?」
ひと握りの集団がこれに反応して答えた。
「いいんです!」
別の誰かが叫ぶ。
「日本はフランスに行っちゃっても、いいんですかぁ?」
さっきより大きな集団が声を揃えて叫ぶ。
「いいんです!」
更にもう一人誰かが絶叫する。
「日本はフランスで優勝しちゃっても、いいんですかぁ?」
その場にいた者全員が一斉に発声する。
「いいんです!」
それから何度か、誰かが何かを問い掛けては、全員で「いいんです!」を叫ぶという掛け合いが続いた。

要するに、誰もが皆、慈英さんの「いいんです!」に支えられていたのだ。
高揚したサポーターは、慈英さんに対する秘かな、しかし絶対的な信頼と感謝の気持ちを、もはや隠そうとはしなかった。
信じる者は救われる。
慈英さんの導きによって日本代表への信仰を貫き通した者は、W杯初出場という至上の幸福を手にする一歩手前の地点までたどり着くことができたのだ。
日本代表チームのサポーターが信仰告白の際に唱える念仏の言葉は、たった一言、「いいんです!」
勝利の日にその念仏を皆で唱和することによって、苦しい法難の日々を慈英さんと共に乗り越えてきた戦友であり心の友でもある仲間たちとの一体感を、誰もが味わうことすらできたのだ。
慈英上人の法力たるや恐るべし。

国立競技場南門は普段は閉鎖されているが、観客大入りの日は、場内の観客を速やかに場外に誘導するために臨時に開錠される。
あの日、この南門は開かれ、サポーター同士の心は互いに開かれ、そしてフランスへの道もようやく開かれようとしていたのだった。

近年、日本代表の実力アップとともにアジア予選は突破して当たり前みたいな感じになってきたが、どっこいアジアは甘くない。
今週末、「嵐」のコンサート会場と化す国立競技場には、まさに今、「嵐の前」の静けさが漂う。
もしも日本代表がアジア予選の嵐に巻き込まれることがあったら、その時、進路を切り開く第二の慈英上人は果たして現れるだろうか?

BGM ・・・ Jのセレナーデ (春畑道哉)
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ベーシストとカメラマン


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ベーシストの後藤次利は、木之内みどりとの逃避行や堀ちえみとの密会など、インパクトあるスキャンダルを振り撒いたことで有名であるが、本業でも立派に業績を残している。
彼が80年代前半にフィッツビート・レーベルから出した3枚のLPが、少し前にCDとなって再発売されたが、再発物でしかも3枚組なのに定価7875円、すなわち1枚当たり税抜2500円という新譜並みの強気の価格設定にもかかわらず、結構売れた。
CD化を待ち望んでいた人が如何に多かったかが、分かろうというものである。

その3枚のうちの1枚「Breath」がLPとして発売されたのは1983年のことだが、それから数年後のある日、藤原新也の写真集「全東洋街道」文庫版のページを捲っていたところ、思わず「おっ」という声が喉の奥から飛び出した。
雪の降りしきる中、黒い煙を吐き荒波の上を航行する汽船。
その背景には、回教寺院の鋭く天を衝く尖塔と巨大なドーム。
極端に露出が不足して、粒子が粗く、陰鬱な画面。
それは紛れもなく、「Breath」のLPジャケットに使われていた写真だった。
頭の中で、列車の連結器が繋がる際の「ガチャン」という音が鳴ったような気がした。

後藤次利が、藤原新也の写真集からインスピレーションを得てアルバムを作ったのか、あるいはアルバムを作った後で写真集を見てジャケット用にピッタリだと思ったのか、どちらなのかは分からない。
いずれにせよ、ベーシストが写真の使用を願い出て、カメラマンがそれを承諾したという構図は明らかであり、二人のアーティストが相互の作品に感じ合うものがあったであろうことが偲ばれた。

今夏、そのジャケット写真の舞台となったイスタンブルで見た風景は、大分前に「全東洋街道」で見たものとはかなり異なっていた。
新興国の一員として欧州連合入りを目指す国には、発展中の活力が感じられた。
ラマザン期間内の回教都市には、様々な種族の人々が溢れていた。
夏の日差しは強く、都市は明るく発色していた。

しかし、それでもなお、夜の港から裏路地に一歩入った時に見えた風景だけは、あの写真集の世界を垣間見せてくれたように感じられたのである。

XY


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Y字路と言えば、横尾忠則の連作が有名である。
彼は、実在するY字路を巡り歩いて検分し、見た風景そのままの絵を描いたり、複数の風景を合成して一枚の絵に仕上げたりしているらしい。
では、あれだけ多くのY字路をどのようにして見つけているのかというと、地図上でY字路と思しきスポットを丁寧に探して回り、ここぞという場所に予め目星を付けた上で足を運ぶとのことである。
天才と評される画家にしては、結構シュアな方法を用いているところが少し意外に感じられるが、確かに、Y字路に遭遇する幸運を信じてあてどなく闇雲に歩くだけでは、非効率に過ぎる。
独創的な作品を量産するには、周到な準備が必要ということのようだ。

その横尾忠則が、仮にこの場所を地図上で見たとしたら、どうなるか。

ここには、Y字形の三叉路はなく、X字状に交差する2本のラインがあるだけである。
しかも、交差する2本のラインのうちの1本は、道路でなくて鉄道だ。
地図を眺めている限り、この場所には、彼がイメージするようなY字路は見えてこないだろう。
地図上を舐めるように移動していく彼の視線が、この場所に注目して静止することは、おそらくないのではないか。

そんな横尾忠則が、では実際にここに立ったら、この風景が彼の眼にはどんな具合に映るのだろうかと想像してみる。
如何なる場合においても彼の中ではXとYは別物なのかもしれないが、XがYに見えたりすることは全くないのだろうか。

BGM ・・・ 無伴奏ヴィオラ組曲第1番 第4曲 (レーガー)

ゴング


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谷あひの街に下流側から入るには、街の一番端に建つこの家の前を必ず通り過ぎねばならない。
この家から先は道が極端に狭くなるため、街の中に車で入ることはできない。

街に向かって歩く道の奥にこの家が見えてくる度に、警戒色を誇示するスズメ蜂の姿を想起する。
外からの訪問者に緊張を強いる役目を担った、異形の城門。
それは、街の住人たちの緊張感が裏返しになって現れたものなのかもしれない。

彼らの警戒行動が、段々と露わになってきた。

当初は、歓迎できない撮影者を、住人たちは無視しているように見えた。
偶然目が合っても、すぐに住人たちの方が家の中に身を隠していた。

しかし最近は、窓から、勝手口から顔を出し、じっと視線を浴びせてくる。
いつの間にか背後に忍び寄ってくることもある。

こちらにその気が無くても、彼らはゴングを鳴らしたらしい。
対決の日々が始まったようだが、そういうことなら、こちらだって負けたくはない。

BGM ・・・ 山高帽男 (島邦明)
プロフィール

vevey

Author:vevey

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